大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

大阪高等裁判所 平成元年(う)162号 判決

主文

本件控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人堀和幸及び同塚本誠一連名作成及び被告人作成の各控訴趣意書記載のとおりであり、これに対する答弁は、検察官藤野千代麿作成の答弁書記載のとおりであるから、これらを引用する。

第一  弁護人両名及び被告人の控訴趣意中、訴訟手続の法令違反の主張について

論旨は、要するに、原判決は、本件各事件が被告人の犯行であることを認めた被告人の検察官及び警察官に対する昭和五九年一〇月一一日付以降の各供述調書中の自白について任意性を肯定し、これら各供述調書を証拠として採用したうえ、その自白を被告人が本件各事件の犯人であると認定する証拠の一つに用いているが、被告人の右各供述調書中の自白は、同月一日以後の大阪拘置所における大阪府警察の警察官の取調べ中に取調官によって加えられた殴る蹴る等の暴行、自慰行為の強制、たばこの火や熱した金属片を手などに押し付けるといった拷問により強要されたものであって、任意性を欠き、従って、右各供述調書は証拠能力がないから、原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな訴訟手続の法令違反がある、というのである。

そこで、所論にかんがみ記録を調査して検討するに、原判決が(判示各事実につき被告人を犯人と認定した理由)の第二において前記各供述調書中の自白の任意性を肯定したことにつき説示するところは十分首肯でき、原判決に所論の訴訟手続の法令違反はないというべきである。

所論は、そのいう警察官による拷問の内容として、特に、被告人は、①昭和五九年一〇月一日の取調時に殴る蹴る等の暴行を受け、②その後、自慰行為を強制されたり、たばこの火を手などに押しつけられたりされ、③同月一一日にはライターで熱したトタン様の金属片を皮膚に押しつけられ、④同月一二日にも同様にライターで熱した金属片を皮膚に押しつけられかけ、たまらず取調室から廊下に逃げ出したところを後ろから蹴られて右手を面前の窓ガラスに突っ込むや、警察官に右手親指を窓ガラスの割れ目にこすりつけられて切りつけられたとの事実を指摘し、これらの事実は、被告人の原審公判廷における供述のみならず、大阪拘置所の被告人の診療録に同月一日付で右手・左上膊擦過傷、右腓腹筋部挫傷(微傷)、出血なしと、また、同月一三日付で両手切創及び擦過傷(右手拇指・左手小指切創)と記載されている旨の同拘置所長作成の照会回答書、被告人の着用していたズボンに被告人の血液型と合致する血液や精液が付着していることを認めた原審鑑定人助川義寛作成の鑑定書、被告人の左手首にかつて真皮層に達する傷害を受けたと認められる色素沈着の異常の傷跡があり、その傷は火傷や薬品によって生じたものと考えられるという原審鑑定人助川義寛の口頭鑑定の結果等の証拠によって明らかである、と主張する。

しかしながら、先ず、所論指摘の②及び③の点についてみると、記録によれば、被告人は、所論の拷問が行われたという時期にはかなり頻繁に弁護人と接見していたのであり、原判決も指摘するとおり、当時、弁護人に対し、警察官から所論のいう①及び④のような暴行を受けて傷を負ったとは訴えたのに、右②及び③のような拷問を受けたとは全く訴えておらず、弁護人に対しても起訴後約三年も経過してから初めて捜査段階で警察官から右②及び③のような拷問を受けたと話したこと、また、所論は、前記の左手首にある傷跡が右②及び③の拷問による火傷の跡であるというのであるが、被告人は同月一二日に右手親指及び左手小指をガラスで切って大阪拘置所の医務室で治療を受けたのに、その際、そのいう火傷については医師によって発見されていないし、被告人から治療を求めてもいないことが明らかであり、他方、前記の精液等の付着した被告人のズボンが被告人から弁護人に差し出されたのは昭和六二年一一月になってからであり、前記鑑定人助川義寛作成の鑑定書及び口頭鑑定の結果並びに同人の原審での証言によっても、右の被告人のズボンに精液等が付着した時期や、前記の左手首にある傷跡にそう傷が生じた時期は明らかでなく、更に、記録によれば、被告人は、本件起訴後、原審第一回公判期日前に自ら検察官及び警察官に対し事情聴取を申し出て本件につき取調べを受けた際にも、勿論拷問を受けたわけでもないのに、前記の昭和五九年一〇月一一日以降の検察官及び警察官に対する自白を維持し、むしろ被告人にとってより不利益な供述をしたことが明らかであって、以上の各事実に徴すると、所論の②及び③の主張にそう被告人の原審での供述は虚偽の供述であると断じた原判決の判断は十分肯認でき、前記ズボンの精液等の付着及び左手首の傷は、いつどのようにして生じたものか確認できないが、少なくとも所論のいうように同月一日以降の警察官による取調べの過程で生じたものではないと認められ、所論指摘の②及び③の拷問の事実は否定せざるをえない。

次に、所論指摘の①及び④の点についてみるに、記録によれば、被告人は、大阪拘置所の医務室において、同月一日に前記の同拘置所の診療録に同日付で記載の右手・左上膊擦過傷等の傷の治療を受け、同月一二日ないし一三日に同診療録に同月一三日付で記載の両手切創等の傷の治療を受けたことが明らかであるが、被告人の原審公判廷における供述では、右各負傷はそれぞれ所論主張の①及び④の警察官の暴行によるものであるというのに対し、取調警察官の原審証人後藤正則及び同増田義則の各供述は、原判決に摘示のとおりであって、要するに、被告人の同月一日付右診療録記載の負傷は、被告人が右警察官増田のネクタイを掴んで引っ張ったので取調警察官三名によって被告人を制止した際に生じたものであり、同月一三日付右診療録記載の負傷は、被告人が供述調書に署名、指印を拒否して取調室から飛び出した際に自ら窓ガラスを割って負傷したものであるというのであるところ、原判決の指摘するところに加えて、被告人は当時同拘置所に勾留されていたのであり、同拘置所内の取調室は看守等拘置所職員も往来する廊下に面していることにも徴すると、被告人の右供述は措信できず、前記証人後藤及び増田の各供述を信用すべきであるとして所論のいう①及び④の警察官による暴行の事実を否定した原判決の判断も十分肯認できる。

そして、他に被告人の前記各供述調書中の自白につき任意性を疑うべき事由は存しないから、原判決が被告人の前記各供述調書を証拠に採用したことに訴訟手続の法令違反はない。論旨は理由がない。

第二  弁護人両名及び被告人の控訴趣意中、事実誤認の主張について

論旨は、いずれも、要するに、原判決は、被告人を原判示第一の京都府西陣警察署巡査Aに対する強盗殺人事件(以下、京都事件という。)及び同第二の金融業宝産業株式会社の「ローンズタカラ」京橋支店従業員Bを殺害して現金を奪った強盗殺人事件(以下、大阪事件という。)の犯人と認定したが、被告人が両事件の犯人であるとする直接証拠は、被告人の検察官及び警察官に対する自白だけであるところ、右自白は信用性に欠け、また、原判決が被告人を両事件の犯人と認定するのに列挙している一連の間接事実についての各証拠は、いずれも極めて証拠価値の乏しいものであって、証拠上、被告人を両事件の犯人とするには多分に合理的な疑いが残るから、原判決には判決に影響を及ぼすことが明かな事実の誤認がある、というのである。

そこで、所論にかんがみ記録を調査し、当審における事実取調べの結果をも併せて検討するに、以下に説示するとおり、被告人が両事件の犯人であると断定した原判決の事実認定は十分肯認でき、原判決に所論の事実誤認はない。

なるほど、記録によれば、被告人は、捜査段階の昭和五九年一〇月一一日から起訴後原審第一回公判期日前の同月二五日にかけて、検察官及び警察官に対し、京都事件及び大阪事件につきいずれも被告人の単独犯行である旨自白し、その旨の各供述調書が作成されているが、右一連の自白は、京都事件のA巡査を包丁で襲った経緯、動機について変遷があり、両事件に用いた凶器の包丁及びけん銃や当時の被告人の着衣の処分について真実を述べていないことなど、虚実をとり混ぜていると認められるうえ、被告人は、原審第一回公判期日以来公判廷においては前記自白をひるがえし、両事件発生当日の行動につき、同日午前中から京都市内で以前京都府警察の警察官であったころに一緒に競艇の呑み行為をしていたCなる男と共にかつての呑み行為の客に対する未収金の取り立てに回り、その後、右Cと共に同じくかつての呑み行為の未収金の取り立てのため京阪電車で大阪市内の京橋駅まで行ったが、同駅に着いたのは大阪事件の発生後であり、そこで、被告人の足の「まめ」が潰れて歩行が困難であったことなどから以後はCが単独で未収金の回収に回ることになり、同人と午後八時に京都駅で落ち合うことにして別れたのであって、両事件の犯行場所に行ったこともない旨供述し、両事件とも全く身に覚えのないことであると否認しているので、前記の被告人の自白については、その他の証拠によって認められる事実と照合して信用性を検討しなければならない。

ところで、記録によれば、本件では証拠物として京都事件の被害者のA巡査及び大阪事件の被害者のBの死体内から摘出された弾丸各一個と京都府警本部で保管さていた京都事件でA巡査が奪われたけん銃にる試射弾丸一個が存在し、これらの弾丸によって両事件の関連の有無を検討することができ、一方、大阪事件については直接証拠として犯行現場における目撃証人が存在するので、先ず右弾丸をもとに両事件の関連につき検討し、次いで大阪事件、京都事件の順に検討する。

一  前記三個の弾丸によって認められる京都事件と大阪事件の関連について

原判決は、原審鑑定人池田浩理作成の鑑定書及び同人の原審での証言等により、右三個の弾丸は同一のけん銃によって発射されたものであり、従って、大阪事件は、京都事件でA巡査が強奪されたけん銃によって敢行されたものであると認定しているところ、記録並びに当審鑑定人長﨑誠三作成の鑑定書、同人作成の鑑定補充書及び同人の当審での証言によれば、原判決の右認定は十分肯認できる。

所論は、原判決が信頼できるとした右池田浩理作成の鑑定書の鑑定内容は科学的合理性に欠け、前記三個の弾丸が同一のけん銃によって発射されたものであるとした右鑑定書の鑑定結果は信頼できないと主張する。しかしながら、右鑑定書及び原審証人池田浩理の供述によると、前記の弾丸三個がいずれも回転弾倉式けん銃によって発射されたものであることは明白であり、右三個の弾丸にはいずれも右回転の五条の腔綫痕があって、それぞれの綫丘痕幅は2.30ミリメートルないし2.31ミリメートルの範囲にあり、それぞれの腔綫痕の傾き角も四度〇四分から四度〇六分の範囲にあることが確認できるところ、右鑑定結果は、右のような各弾丸の腔綫痕の状況に加えて、一般に回転弾倉式けん銃によって発射された弾丸に形成される条痕を形成過程から四種類に類別したうえ、前記の三個の弾丸につき、比較顕微鏡によって対応する五条の綫丘痕及び綫底痕別に同種類の条痕の異同を検査して、そのすべての綫丘痕及び綫底痕について符合する同種類の条痕があることを確認し、相違する条痕についても検討を加え、鑑定人自身のこれまでの五〇〇ないし六〇〇件に及ぶ同種の鑑定経験と内外の研究報告をもとに考察して導かれたものと認められ、右池田浩理作成の鑑定書の鑑定内容は十分科学的合理性があると認められる。そして、右鑑定書の鑑定結果は、前記三個の弾丸の腔綫痕のうち顕微鏡写真の上で鮮明な部分についてのみではあるがそれぞれの条痕が符合するとする当審鑑定人長﨑誠三作成の鑑定書及び鑑定補充書によっても補強され、十分信頼できるというべきである。

更に、被告人及び弁護人らは、当審において、一九九二年九月一一日付及び同月二五日付各意見書により、右池田浩理及び長﨑誠三作成の各鑑定書に添付された前記三個の弾丸の腔綫痕の各写真にある条痕の中には、全く関係のない他事件における鑑定書に添付された弾丸の腔綫痕の写真にある条痕と符合するものがあり、また、右長﨑誠三作成の鑑定書においては、それに添付された各写真にある条痕の中に鑑定書において比較の対象とした写真の条痕とだけでなく他の写真の条痕とも符合するものが多々あるとして、弾丸の腔綫痕の固有性には疑問があり、弾丸の腔綫痕による射撃銃器の同一性の鑑定は科学的合理性に欠けると主張するが、右主張の他事件における鑑定書に添付された腔綫痕の写真との符合の点については、右各意見書添付の資料からして、必ずしも指摘のとおり符合するとは認め難いばかりか、そもそも異同を比べる両者の顕微鏡写真の倍率が同一であるのか明らかでなく、形成過程の不明あるいは異種類の条痕との異同を比べたり、中には薬きょうに形成された閉塞板痕との異同を比べるなど、弾丸の腔綫痕の比較の方法において誤りがあり、また、右主張の長﨑誠三作成の鑑定書に添付された各写真間の腔綫痕の符合の点についても、同人が当審での証言で指摘するとおり、前記三個の弾丸の対応する同一部位の間でなく異なる部位との間での腔綫痕の符合や同じ弾丸の二つの部位の腔綫痕の符合をいうのであって、同様に腔綫痕の比較の方法に誤りがあるというべきであり、右主張は採用できない。

また、被告人及び弁護人らは、前記一九九二年九月一一日付意見書において、右長﨑誠三作成の鑑定書は、前記三個の弾丸の一部の腔綫痕についてのみ異同を検査してその符合を確かめただけで、右各弾丸が同一銃器から発射されたものと鑑定していることからして、その鑑定結果は信頼できないと主張するところ、確かに、同鑑定書の鑑定内容は、前記三個の弾丸の対応する一つの部位のスキッドマークと三つの部位の綫底痕についてのみ異同を検査して、それぞれの符合を確認しているだけであり、これだけから右各弾丸が同一銃器から発射されたものといえるかについては、同人の当審での証言によっても必ずしも十分に説明されていないが、右比較に供した一部の腔綫痕は顕微鏡写真の上で鮮明なものを選んだというのであるから、少なくとも、同鑑定書の腔綫痕の比較結果は、前記池田浩理作成の鑑定書の信頼性を補強するものといえる。

そうすると、大阪事件が京都事件でA巡査が奪われたけん銃による犯行であることは明らかである。

二  大阪事件について

当時大阪事件の犯行場所の「ローンズタカラ」京橋支店の従業員であって事件現場に居合わせた原審証人楠田晴美は、大阪事件が一人の男による犯行であることなど、目撃したその犯行状況について供述したうえで、その犯人について、年齢は三五歳から四〇歳位、身長は一六〇から一六五センチメートル位、頭髪は丸坊主から少し伸びた状態、顔つきは丸顔、色黒で肌がでこぼした感じであり、赤色の半袖ポロシャツを着ていて薄い黒色レンズのサングラスをかけ、右手に黒色の手袋をはめていた旨供述し、公判廷でも顔つきから被告人が右犯人に似ていると述べたほか、同事件発生当日からの警察官の事情聴取においても写真や直接の面割りによって被告人が右犯人に似ていると供述してきたところ(同人の司法警察員に対する供述調書三通)、原判決は、関係各証拠によって、被告人が、赤色の半袖シャツを着た姿で同事件発生当日の午後三時一〇分ころ以降にその犯行場所付近の飲食店「あんどれー」京橋店に客として入り、同事件発生のしばらく前に同店から出た事実、そして被告人が、同事件発生直前の午後四時前ころに、赤色の半袖シャツを着て薄い黒色レンズのサングラスをかけ、黒色の手袋をはめた姿で、その犯行場所の原判示永井ビル二階の「ローンズタカラ」京橋店の階上にある同ビル四階の金融業「ローンズ善木」の店舗に現れた事実を認定し、右各事実と前記の原審証人楠田晴美の供述するところを併せて、これらは、被告人が大阪事件の犯人であることを窺わせるに有力な間接事実である旨判示しているのであるが、以下に説示するとおり、原判決の認定した右各事実は優に認められ、原判決の右判示も優に肯認できるばかりか、右楠田の供述に右各事実を併せて検討すると、大阪事件は被告人の犯行であると認められる。

すなわち、前記飲食店「あんどれー」京橋店の従業員であった原審証人岩瀬明子は、大阪事件発生当日の午後三時一〇分ころ以降に、四〇歳過ぎに見えた赤色の半袖シャツ姿の男の客が、一人で同店に来てレモンのかき氷を注文し、発泡スチロールのコップに入れて提供したレモンのかき氷を飲んで五分か一〇分位で同店から出て行ったが、その後三〇分位してから同店前付近にパトカーや救急車が来て、警察官から、今そこで事件があったが赤色シャツを着た男が前を通らなかったかなどと尋ねられたりした旨供述しているところ、記録によれば、右岩瀬の供述にいう赤色の半袖シャツ姿の男が飲んだかき氷の容器の発泡スチロールのコップから被告人の右手拇指の指紋が検出されたこと、右飲食店「あんどれー」京橋店と前記永井ビルとは約五六メートルほどしか離れていないことが明らかであって、これらのことからすると、被告人は、大阪事件発生の約三〇分足らず前に、赤色の半袖シャツを着た姿でその犯行場所からさほど離れていない飲食店「あんどれー」京橋店にいたことが認められる。

そして、いずれも前記永井ビル四階の「ローンズ善木」の従業員であった原審証人橋上治幸、同田中儀浩及び同小泉洋子は、ともに、大阪事件発生当日の午後四時前ころ同店内で仕事中に、一人の男が、一度同店入口の内開きのドアを少し押し開けて店内を覗いただけで出て行ってから間もなく、再び右ドアを半開きにして押し開けて現れ、右田中がその男と応対して金融には印鑑証明や身分を証明するものが要ると言うと、その男は黙って出て行ったが、それから二、三分後に下の方から「パーン」という音が聞こえ、その後、警察官が来て大阪事件の発生を知ったというのであって、右橋上、田中及び小泉が右の「ローンズ善木」に現れた男について供述するところは、年齢、体格、顔つき、顔の肌や頭髪の状態等において前記の原審証人楠田の供述する大阪事件の犯人の人相と大体同じで、いずれも、赤色の半袖シャツを着て薄い黒色レンズのサングラスをかけ、手に黒色の手袋をはめていた(ただし、橋上と田中は両手共といい、小泉は左手しか見なかったという。)というのであり、更に、右橋上及び田中の各証言によれば、その男は右手に原審で証拠物として提出されたチャック付手提袋(〈押収番号略〉)と形状のほか地色及び絵柄もよく似た(右田中は、全く同じとまでいう。)手提袋を提げていたことが認めらるところ、右橋上、田中及び小泉の各証言によれば、三人共が大阪事件発生当日の夜から翌朝三時ころまでの極初期の警察官による事情聴取で被告人の写真二枚を見て右の「ローンズ善木」に現れた男とよく似ていると答えたことが認められる。ところで、記録によれば、原判決の認定のとおり、被告人が、大阪事件発生当日の午後四時四五分ころに大阪市北区曾根崎一丁目にある特殊浴場「トルコエレガンス」へ行き、続いて同日午後五時四五分ころに同区曾根崎二丁目にあるいわゆるピンクサロンの「サロン将軍」へ行ったことは明らかであるが、「トルコエレガンス」のホステスであった原審証人馬場恵子は、原審公判廷で被告人を見て、同日午後四時四五分ころから約一時間にわたり同店の三階三六号室の個室浴場で接客サービスをした客が被告人であることに間違いないと断言しており、その客が左足裏の指に近いところにできた「まめ」の皮膚を剥いだとも供述していることのほか(当時、右証言のとおり被告人の左足裏に「まめ」ができていたことは、記録上明らかである。)、右三六号室のヘルスバスの蓋から被告人の左手の掌紋が検出されたことが記録上明らかであることからして、そのとおり同女が同店で被告人に接客サービスをしたと認められるところ、同女は、その時、被告人は黒みがかった赤色の半袖シャツを着ていて前記証拠物のチャック付手提袋と形状のほか地色及び絵柄もよく似た手提袋を持っていた旨供述しており、また、いずれも「サロン将軍」のホステスであった原審証人久保田玲子及び同藤原美津子も、原審公判廷で被告人を見て、被告人が同日午後五時四五分ころから同店で一緒に接客サービスをした客であると証言し、被告人の左足裏の指に近い部位の「まめ」の皮膚が剥がれたところにバンドエードを貼ってやったとも供述していることからして、そのとおり同女らが同店で被告人に接客サービスをしたと認められられるところ、同女らは、その時、被告人はえんじ色ないし赤っぽい色の半袖シャツを着て来店したと供述し、更に、右久保田は、その時、被告人は前記証拠物のチャック付手提袋と形状のほか地色及び絵柄もよく似た手提袋を持っていたと供述しているのであって、これらの事実に、前記認定の被告人が同じく赤色半袖シャツ姿で飲食店「あんどれー」京橋店にいたこと、右橋上、田中及び小泉の三人共が、それぞれ大阪事件発生当日の夜から翌朝にかけての警察官の事情聴取において被告人の写真を見て「ローンズ善木」に現れた男によく似ていると答えたこと、右橋上、田中及び小泉の供述する「ローンズ善木」に現れた男の年齢、体格、顔つき、その他の容貌が、記録上認められる当時の被告人のそれとほぼ合致することを併せ考えると、前記の原審証人橋上、同田中及び同小泉の各供述にいう「ローンズ善木」に現れた男は、被告人にほかならないと認められる。

そうすると、前記永山ビル四階の「ローンズ善木」に現れた被告人が同店を出て二、三分後に、同ビル二階の「ローンズタカラ」京橋支店で大阪事件が発生したのであり、しかも、「ローンズ善木」に現れた被告人は、赤色半袖シャツを着て黒いレンズのサングラスをかけ、手に黒色の手袋をはめていたのであるが、前記のとおり、原審証人楠田晴美の目撃した大阪事件の犯人も、赤色半袖シャツ姿で黒色レンズのサングラスをかけて手に黒色の手袋をはめていたのであり、その特徴的な姿恰好が「ローンズ善木」に現れた被告人のそれと一致するのであって、更に、右楠田の供述する大阪事件の犯人の体格、顔つき、容貌等が記録によって窺われる当時の被告人のそれとおおむね合致し、右楠田は、前記のように原審公判廷においても被告人を見て目撃した大阪事件の犯人によく似ていると供述していることも併せ考えると、大阪事件は被告人の犯行であると認められる。

所論は、先ず、被告人が大阪事件発生前に飲食店「あんどれー」京橋店にいたとの点について、前記の原審証人岩瀬明子の供述は、そのいう男の客についての観察が不十分であり、同人の来店時刻についてもあいまいであることなどからして信用性に乏しく、また、被告人の指紋が検出された発泡スチロールのコップが右岩瀬の供述する男の客に提供されたかき氷の容器であったことの特定も十分でないと主張する。しかしながら、右岩瀬の供述によれば、そのいう男の客が飲食店「あんどれー」京橋店に来た時刻は、午後三時一〇分ころに女子高校生風の三人連れの客が来た以降であったことは確かであり、同店は主に若い女性向けの店で、同店にそのような年配の男性客が一人で来るのは稀なことであるうえ、その男の客が帰ってから同店前付近にパトカーや救急車が来て、警察官から赤色の半袖シャツ姿の男が同店の前を通らなかったかと尋ねられ、店の前を通らなかったかとの質問であったので「わからない。」と答えたが、すぐに右の男の客のことを思い出して、間もなく同店前を通りかかった警察官に対しその男の客のことについて話したというのであって、右岩瀬は前記の男の客に関することについて特別の印象を受けたものと考えられ、右岩瀬の供述は、少なくとも前記摘示の事実について十分信用できるというべきである。また、被告人の指紋が検出されたかき氷の容器の特定についても、原審証人岩瀬明子の供述及び飲食店「あんどれー」京橋店の経営者である田中佳子の検察官に対する供述調書によれば、右岩瀬は、前記の男の客が帰ってから、同人の飲んだかき氷の容器の中に同人が水を飲んだ際の紙コップを重ね入れて、これを同店内のごみ入れに捨てたが、当日同店から帰宅の際に、警察がそのかき氷の容器や紙コップから指紋をとるかもしれないと考えて、右かき氷の容器や紙コップがそのまま重ねた状態で同店内のごみ入れの中にあることを確認して帰り、帰宅後、警察からその容器の提出を求められた右田中からの電話による問い合わせに対しその旨答え、右田中が、右岩瀬から聞いたとおり、同店内のごみ入れから紙コップを重ね入れたかき氷の容器を取り出して、これを警察に提出したこと、なお、右ごみ入れ内には他にかき氷の容器に紙コップを重ね入れたものはなかったことが認められるのであって、被告人の指紋が検出されたかき氷の容器は、右岩瀬の供述する男の客が飲んだかき氷の容器であると認められる。

所論は、次に、被告人が大阪事件発生の直前に永山ビル四階の「ローンズ善木」に現れたとの点に関し、原審証人橋上治幸、同田中儀浩及び同小泉洋子の「ローンズ善木」に現れた男についての目撃供述は、いずれも極短時間の観察によるもので、その男の特徴を十分把握することができなかったと考えられることなどからして信用性に乏しく、ことに、右橋上及び小泉の目撃供述については、同人らがその男を見た位置からして、その男の特徴を十分把握できなかったはずであって、信用しがたいと主張する。しかしながら、右橋上、田中及び小泉の原審での各証言のほか、右田中及び小泉の当審での各証言、当審における各検証の結果並びに当審で取り調べた司法警察員作成の昭和五九年九月一五日付実況見分調書をも併せて検討すると、右橋上らのいう「ローンズ善木」に現れた男は、一度同店入り口の内開きドアを少し押し開けて顔を出し、店内を覗いてからドアを閉めた後、しばらくして再び右ドアを少なくとも身体が前向きに通れる程度に押し開けて現れ、同店内の右ドアの開き口あたりに立って店内を見渡し、前記のように右田中が応対した後に帰って行ったのであり、その男が同店に姿を現した時間は、せいぜい一度目が二〇ないし三〇秒、二度目が一分弱であったと窺われるが、特に右橋上らがいずれも初めからその男に不審を感じて警戒していたことも考慮すれば、右時間は立ち止まった状態のその男の体格、容貌、服装等を観察するのに短すぎるとは考えられず、また、右小泉は、いずれの場合も同店の入り口ドアの開き口のほぼ正面の席にいて、その男の身体の前面は殆ど直接に観察できたし、その他の部分もかなり透明な右ドアのすりガラスを通して観察できたものと認められ、右橋上も、最初にその男が現れた時には、右小泉の席のほぼ前に立っていて同人と同様にその男を観察できたばかりか、二度目に現れた時にも、右ドアを左方へ開けてその開き口に立ったその男の左斜め前方にいたものの、その男の身体の一部は直接に観察でき、他の部分も右ドアのすりガラスを通して観察できたものと認められるのであって、右橋上は、大阪事件発生当日の警察官の事情聴取において、その男が提げていた前記の手提袋に描かれた絵柄や文字を詳細に描いた図面を作成して提出していることが記録上認められることからしても、右橋上、田中及び小泉のその男についての各目撃供述は、それぞれの十分な観察に基づくものと認められる。更に、その他の所論にかんがみ検討しても、右橋上、田中及び小泉の右各目撃供述には何ら不自然な点がなく、同人らの右各目撃供述は十分信用できる。

所論は、また、前記の大阪事件発生後に被告人が「トルコエレガンス」及び「サロン将軍」に立ち寄った際の状況について、原審証人馬場恵子、同久保田玲子及び同藤原美津子の各供述は、同人らの当時の職業柄からいずれも警察、検察側に迎合的であって、たやすく信用できず、ことに、右久保田及び藤原の「サロン将軍」で接客サービスをした客が被告人であるという供述は、同店内の照明の状態等その観察状況や、右藤原においては酒に酔っていたことなどに照らして信用できないと主張する。しかしながら、先ず、右馬場の供述についてみると、所論が特に迎合的であるという、目撃した被告人所携の手提袋について前記証拠物のチャック付手提袋を示してこれとの相似性を尋ねた検察官の尋問に対する供述も、右証拠物を示されるまでの被告人が所持していた手提袋の形状についての供述内容と併せてみれば、ことさらに警察、検察側に迎合したものとは認められず、その他にも目撃した事実をまげて検察官の質問に迎合したと窺えるような供述は見当たらないのであって、右馬場の供述が特に警察、検察側に迎合的であるとは認められない。次に、右久保田及び藤原の各供述についてみるに、同人らは、被告人が「サロン将軍」に入って来た時からその姿を見届けており、右藤原は被告人の隣に、右久保田は右藤原の隣に腰掛けて被告人に接客サービスをしたこと、同店内の照明は、普通は色つきで薄暗いが、当時は被告人の要望により明るくなっていたこと、右久保田及び藤原は、被告人に対し通常の接待のほかに、前記のとおり足の「まめ」の潰れの手当てもしてやったことが、右久保田及び藤原の各供述によって明らかであって、これらの事実に徴すると、同人らは、当時、被告人の身近にいてその体格、顔つき、容貌、着衣の形状及び色等を十分観察できたものと認められ、また、右久保田は、被告人が手提袋を所持していたのを最初から認めており、被告人がその袋の中から紙幣を取り出すところも見ていたのであって、右手提袋の形状等について十分観察できたものと認められる。そして、右久保田及び藤原の各供述にことさら警察、検察側に迎合するような点は見受けられず、右藤原は、かなり飲酒していたが、認識又は記憶の欠けていることについては、ありのままに「わからない。」とか「覚えていない。」と供述しているのであって、同人らの前記各供述も、十分信用できるというべきである。

そして、所論は、大阪事件の現場目撃者である原審証人楠田晴美の犯人についての目撃供述も、その目撃時間が短いこと、事件を意識して注視していなかったこと、事件後の動揺があること等からして、信用できないと主張する。しかしながら、右楠田は、犯人がBを射撃してからは動揺して犯人の顔も見なかったが、犯人が「ローンズタカラ」京橋支店の店内に入ってきてBに向けてけん銃をかまえてから射撃するまでの二、三分間は、犯人の行為を冗談かと思う反面、本当の強盗かもしれないという気持ちで犯人の姿を見ていたというのであり、その間の右楠田の犯人の観察が、時間的に不十分であったとは到底いえないし、ただ漠然と眺めていたのではないことも明らかであって、記録上認められる右楠田の大阪事件発生直後の警察への通報内容に照らしても、右楠田の犯人についての目撃供述は十分信用できるというべきである。なお、所論指摘のとおり、右楠田は、被告人が犯人に似ているというにとどまっているが、これは、犯人の頭髪がもう少し短かったとか、犯人の顔の色がもう少し黒かったというような点から、慎重に断定を控えてそのように表現しているにすぎないものと窺われ、その犯人の観察があいまいであったことによるとは到底認められない。

更に、被告人の前記手提袋の入手経緯が解明されていないこと等その余の所論にかんがみ記録を精査し、当審における事実取調べの結果をも併せて検討しても、前記の認定は左右されない。

以上によると、被告人は、大阪事件発生当日、京阪電車で大阪の京橋駅まで来たが、着いたのは大阪事件の発生後であったという、被告人の原審公判廷における供述は、到底信用できず、これにひきかえ、捜査段階での大阪事件についての自白(警察官に対する昭和五九年一〇月一一日付供述調書)は、犯行前後の被告人の行動についても先に認定したところと大体合致し、本筋において十分信用できるというべきであって、大阪事件は被告人の単独犯行であると断定できる。

三  京都事件について

原判決は、関係各証拠により、①被告人は、京都事件発生直後にその現場直近から、両肘後ろあたりに被害者のA巡査の血液型と異ならない血液型の人血を付け、顔面にも飛沫血痕様の血を付け、ズボンの後ろを土砂で汚し、上半身白色ランニングシャツ姿等の恰好で事件現場から遠ざかる方向に歩いて、途中からタクシーに乗って京都市上京区千本中立売上る東入る所在の映画館「西陣大映」付近まで行き、同日午後一時三〇分ころ同映画館に入って、すぐに出て行ったこと、②被告人は、京都事件発生の前日午前一〇時三〇分ころに、同市上京区内の刃物金物店の寺田商店でステンレス製包丁(〈押収番号略〉と同種同形のもの)一本を買ったこと、③右包丁は、被害者A巡査の死体の創傷及び当時の着衣の損傷の成傷器となりうるものであること、の各事実を認定し、これらの事実によれば、被告人が、京都事件の犯人であることを強く推測させられる旨判示しているところ、以下に説示のとおり、原判決の認定した右各事実は優に認められ、原判決の判示するところも十分首肯できる。

すなわち、右①の事実については、原審証人山中又次郎、同北坂絹子、同鎌田大亮、同高木与市郎、同竹内孝夫及び同河辺康雄の各供述によれば、いずれも京都事件発生当日のことであるが、同人らは、右山中が午後零時五七分ころに同事件現場のすぐ東南側の道路で見かけたのを初めとして、それから午後一時一五分ころまでの間に同所より南方の道路において、それぞれ、両方あるいは左右いずれかの肘のあたりに血の付いているのが見えた頭髪の短い歩行中の男を見かけたこと、原審証人奥村信之の供述によれば、同人は、同日午後一時五分ないし一五分ころに、更に南側の京都市上京区大宮通り寺ノ内上るの大宮通りに面した喫茶店「カトレア」の中から、左肘のあたりに血の付いた頭髪の短い男が同通りを北へ向かうタクシーに乗ったのを見かけたこと、タクシーの運転手である原審証人文字義男の供述、その他記録によれば、同人は、同日午後一時一五分ころ右喫茶店「カトレア」前で頭髪の短い男一名をタクシーに乗車させて大宮通りを北へ向けて発進し、一〇分足らず走行して同市上京区千本中立売交差点東側でその男を下ろしたが、その男は、右タクシーの後部座席のカバーの左端に血を付けていったこと、原審証人行岡光男及び同増田忠史の各供述によれば、同人らは、それぞれ、右千本中立売交差点の東側路上で左腕あたりに血を付けた頭髪の短い男が近くの映画館「西陣大映」の方に向けて歩いて行くのを見かけたこと、そして、同映画館の従業員である原審証人大塚幸一の供述によれば、同日午後一時三〇分ころ、左肘の後ろあたりに血を付けた頭髪の短い男が同映画館に入場したが、その男は、途中で清涼飲料水の「リアルゴールド」を自動販売機で買って飲み、五分位して出て行ったことが認められるところ、右各証人の供述のほか、記録及び当審における現場検証の結果によって検討すると、右のタクシー運転手の文字以外の各証人がそれぞれ肘のあたりに血を付けた頭髪の短い男を見かけた時間帯及び場所は、午後零時五七分ころから午後一時一五分ころの間で京都事件の現場のすぐ東南側の路上から南方の前記喫茶店「カトレア」までの周辺地域と、午後一時三〇分ころで映画館「西陣大映」内及びその近辺とに集中しており、その両者の間の時間帯に、右文字がタクシーに前記の座席カバーに血を付けていった男を乗せて喫茶店「カトレア」前から映画館「西陣大映」近くまで運んだことが認められ、原判決もいうとおり人が肘あたりに血を付けたまま路上を通行したりするのは甚だ特異なことであるほか、右各証人の供述する男の年齢、体格、風貌等が大体合致することなどの原判決の指摘する点をも併せ考えると、右各証人が目撃し、あるいはタクシーに乗せた男は、同一人物であったと認められる。そして、記録によれば、その男が映画館「西陣大映」で飲んだ清涼飲料水「リアルゴールド」の空瓶から被告人の指紋が検出されたことが明らかであるから、右各証人が目撃した男は、被告人にほかならないと認められる。更に、記録によれば、前記文字のタクシーの座席カバーに付けられた血が人血で、その血液型は、A型、MN型で被告人の血液型とは異なりA巡査の血液型と異ならないことが認められるし、その他、前記各証人の供述を総合すると、右①の事実は優に認められる。

これに対して、所論は、右各証人の間で、その目撃した男の上半身の着衣につきランニングシャツ、下着の半袖シャツ、半袖開襟シャツなどと供述が分かれ、その男のズボンが土砂で汚れていたと供述している者とそのような供述をしていない者とがあり、また、前記大塚は、その男の顔にも血が付いていた旨供述しているが、他の者らはそのような供述をしていないことからして、右各証人の目撃した男は同一人でないというべきであり、更に、被告人は、当時、足の裏にできた「まめ」のため跛行していたのに、右各証人はいずれも、目撃した男の歩行状態につきそのような供述をしていないから、右各証人の目撃した男は被告人でないと主張する。しかしながら、右各証人のうち、大塚は、右の男をかなり入念に観察したと認められ、その男は白色ランニングシャツ姿でズボンに土の汚れを付け、顔にも血を付けていたという同人の供述を信用すべきところ、ただ一人その男の着衣が半袖開襟シャツであったと供述している文字は、少なくともその男がタクシーから下りるまでは特にその男に関心がなかったと窺われ、原判決もいうようにその男の着衣については記憶違いをしていると認められるし、その他の各証人は、いずれも通りがかりのその男を見たものであり、特に肘あたりに血を付けていることに関心を持ったため、その中には、右大塚の供述と相反する点で、その男の着衣等について記憶違いをしている者や、その男のズボンの汚れに気付かなかった者もあるに過ぎないと認められるのであって、所論指摘のような各証人間の供述の相違によっては、いまだ右各証人の目撃した男が同一人物であるとする前記認定は左右されない。また、被告人の歩行状態の点については、原審証人馬場恵子、同久保田玲子及び同藤原美津子の各供述、原審鑑定人助川義寛の口頭鑑定の結果並びに当審証人古村節男の供述、その他記録によると、確かに、被告人は、京都事件発生当日前から両足裏の「まめ」の痛みのため楽に歩行できなかったと認められるが、右助川義寛の口頭鑑定の結果及び古村節男の証言によれば、右「まめ」の歩行能力に対する影響は必ずしも大きくなく、痛みの感覚は、個人差があり、精神的緊張度によっても異なるというのであって、前記各証人がその目撃した男の歩行状態に特に異常を感じなかったからといって、その男は被告人にほかならないとした前記認定は到底覆されない。

次に、右②及び③の各事実については、原判決の判示のとおり、前記寺田商店を経営する原審証人寺田久子の供述のほか記録によれば、右寺田が、同店で京都事件発生の前日の昭和五九年九月三日午前一〇時三〇分ころに男の客に前記ステンレス製の包丁一本を販売し、次いで同日午前一一時過ぎころに同じ男に折り畳み式のこぎり一本を販売したことは明らかであるところ、右寺田及び大阪府警察の警察官である原審証人松村輝光の各供述によると、右折り畳み式のこぎりの販売の事実は、右松村が、同年一〇月六日にいずれも被告人作成の同店の所在場所の図面と折り畳み式のこぎりの図面の写しを持って同店へ行き、その図面をもとに店内の商品から折り畳み式のこぎりを取り出して、右寺田に対し、このようなのこぎりを前記ステンレス製包丁を売り渡した男に販売していないかと尋ね、右寺田がこれを肯定したことから、初めて警察側に明らかになったことが認められ、そうすると、被告人は右折り畳み式のこぎりの販売の事実を知っていたものであり、右寺田の供述によれば、右包丁とのこぎりを販売した客は、四〇歳位で身長一六〇センチメートル位の男であったというのであって、その年齢及び身長が被告人のそれとほぼ合致することも考え併せると、被告人において他人が同店で右のこぎりを買ったのを見聞したような事情が窺われない限り、右寺田が右包丁を販売した客は被告人であったと認められる。ところが、被告人は、突如、原審公判廷で、昭和五九年九月三日午後に、前記のCなる人物が同日同店で包丁と折り畳み式のこぎりを買い求めてきたような話を同人の妻としているのを聞き、右Cがその包丁と折り畳み式のこぎりを持っているのを見た旨供述しているが、被告人の右供述が虚偽であると認められることは、原判決の判示するとおりであり、その他、被告人において他人が同店で折り畳み式のこぎりを買い求めたことを見聞したような事実は全く窺えないのであって、以上によれば、被告人は、京都事件発生の前日午前一〇時三〇分ころに同店で右包丁を買い求めたことが認められる。そして、右包丁がA巡査の死体の創傷の成傷器となりうるものであることは、原判決の挙示する各証拠によって十分認定できる。

これに対して、所論は、被告人は、昭和五九年九月三日、国鉄(現在はJR)総武線成東駅午前五時一八分発の電車に乗り、千葉駅と東京駅で乗り換えて新幹線で京都へ来たが、当時から足の「まめ」のため歩行に支障をきたしていたので乗換に時間を要したうえ、千葉駅と東京駅で覚せい剤の密売人と会ったりしたことから、午前一〇時三〇分ころに右寺田商店へ行くことが不可能であったし、また、原審証人寺田久子は、以前、京都事件発生後に新聞やテレビで被告人の姿を見、警察官から被告人の写真を見せられたりしたが、包丁とのこぎりを売った客と被告人とを結びつけることができなかった旨供述していることに照らすと、右の寺田が包丁とのこぎりを売り渡した客は被告人でなかったと認められる、と主張する。しかしながら、被告人の足の「まめ」の歩行に対する影響については前記認定のとおりであり、所論の被告人が覚せい剤の密売人と会ったとの点については、これにそう被告人の原審公判廷での供述が信用できないことは原判決の判示するとおりであって、記録によれば、被告人は、同日、前記成東駅午前五時一八分発の電車に乗って京都へ向かったとすると、午前一〇時前後には京都駅に着くことが十分可能であり、従って、午前一〇時三〇分ころに右寺田商店へ行くことができたものと認められるし、また、右寺田の供述によれば、同人は、前記認定のとおり警察官の松村が折り畳み式のこぎりを取り出したことから、同日包丁とのこぎりを販売した客が右松村のいうとおり被告人であったことを認めることになったのであって、右寺田が新聞やテレビで被告人の姿を見、警察官に被告人の写真を見せられても右包丁とのこぎりを売り渡した客と結びつけられなかったのは、その客の顔つき、風貌についての認識が不十分であったに過ぎないものと認められるから、前記認定は左右されない。

そうすると、被告人は、自己の血液型とは異なりA巡査の血液型と異ならない血液型の人血を身体につけて京都事件発生直後にその現場のすぐ近くにいたうえ、右事件発生の前日にA巡査の死体の創傷を形成するに可能な包丁を買い求めていたものであり、これらの事実を併せると、被告人が京都事件の犯人であると強く推測させられるのは当然である。

そして、前記①ないし③の各事実に、先に認定したとおり、大阪事件が被告人の単独犯行であって、被告人が大阪事件で用いたけん銃が、京都事件でA巡査が奪われたけん銃であることを併せると、京都事件も被告人の単独犯行であると認めざるを得ない。

所論は、被告人が京都事件の犯人であったのなら、A巡査の死体の創傷の状況からして、被告人は、相当の返り血をあびたはずであるのに、前記山中又次郎ら京都事件発生後間もない時期に被告人を見かけた各証人の供述によれば、そのような状況は目撃されていないから、被告人を京都事件の犯人と認めるのには疑問があると主張する。しかしながら、前記の原審証人大塚幸一は、被告人の顔にも飛び散ったような血が付いていたのを認めているし、右山中らの被告人を目撃した各証人の供述を総合し、当審において取り調べた京都事件発生の前夜及び当日朝の被告人の服装が写っているビデオカセットテープ二本(〈押収番号略〉)にも徴すると、右山中らの各証人が見かけた被告人は、上半身ランニングシャツ姿でわざと上着を脱いでいたことが認められ、被告人は、犯行後、上着に返り血が付いたのを隠したと窺われるのであって、所論は採り得ない。

被告人は、原審及び当審公判廷で、京都事件発生当時には京都市北区内の金閣小学校付近にいた旨アリバイを供述しているが、右供述が信用できないことは原判決の判示するとおりであり、これにひきかえ、ことに被告人の警察官に対する昭和五九年一〇月二五日付供述調書中の京都事件についての自白は、本筋において関係各証拠と矛盾せず、信用できるというべきであって、京都事件も被告人の単独犯行であると断定できる。

以上のとおりで、更にその余の所論にかんがみ検討してみても、京都事件及び大阪事件のいずれもが被告人の単独犯行であると認めた原判決の認定に事実誤認はない。論旨は理由がない。第三 弁護人両名の控訴趣意中、法令適用の誤りの主張について

論旨は要するに、刑法の死刑の規定は、憲法一三条、三一条、三六条に違反し、無効であるのに、原判決は、原判示第一及び第二の各罪につき刑法二四〇条後段の所定刑期中死刑を選択したもので、原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな法令適用の誤りがある、というのである。

しかしながら、憲法一三条は生命に対する国民の権利といえども公共の福祉に反する場合には立法上剥奪されることを予想していると解されるところ、憲法三一条は刑罰として死刑の存置を承認していると解されるので、一般に死刑が直ちに憲法三六条にいう残虐な刑罰であるとはいえず、現行の死刑の執行方法が他の方法と比べて特に反人道的で残虐であるとはいえないから、刑法の死刑の規定は、所論指摘の憲法の各条項に違反するものでなく(最高裁判所昭和二三年三月一二日大法廷判決、最高裁判所昭和三〇年四月六日大法廷判決)、原判決に所論の法令適用の誤りはない。論旨は理由がない。第四 弁護人両名の控訴趣意中、量刑不当の主張について

論旨は、要するに、原判決は、原判示第一(京都事件)及び第二(大阪事件)の各罪につき死刑を選択したが、死刑の選択はあくまでも慎重になされるべきであるところ、被告人が右犯行に至った経緯及び動機は十分解明されていないから、原判決がいうように右各犯行に至る経緯、動機に酌量すべき事情は何ら見出せないとまでは決めつけられないこと、犯行態様は、両事件とも計画的というよりはむしろ場当たり的であり、また、京都事件については、目撃者がなく、犯行自体も原判決のいうような一方的な攻撃であったかは疑問であること、大阪事件で強奪した現金が約六〇万円で多額とはいえないこと、被告人は、前刑の事件を起こすまでは真面目な社会人として生活してきたのであり、被告人が本件各犯行に及んだ経緯、動機が十分解明されていない以上、被告人に反省、悔悟の情がないとか、被告人が矯正不可能であると決めつけるには疑問があること等の事情のほか、死刑を選択する事情として被害者の遺族の被害感情や事件の社会的影響を考慮するのは相当でないことも併せ考えると、いずれの事件についても死刑を選択した原判決の量刑は不当である、というのである。

そこで、所論にかんがみ記録を調査し、当審における事実取調べの結果をも併せて検討する。

本件は、京都市内の公園内の路上でおびき出した警察官を包丁で殺害して同警察官から実包装填のけん銃を強奪したうえ、その約三時間後に大阪市内の金融会社の店舗で右けん銃で従業員一名を射殺して現金を強奪した連続強盗殺人等の事案であるところ、本件各犯行の動機は、被告人が真実を供述しつくしていないため、所論指摘のとおり必ずしも十分に解明されていないが、被告人の前日来の行動や一連の犯行状況等からして、京都事件の動機にも奪ったけん銃を用いて現金強盗をする意図があったことは否定できず、他方、被告人は、本件各犯行当日の五日前の前刑仮出獄の際には、家族から暖かく迎えられ、妻には当面の入り用のために現金二〇万円を用意してもらい、被告人としては右仮出獄後の生活に何ら不満を抱くような事情がなかったと認められることに徴すると、原判決のいうように、本件各犯行の動機につき酌むべき事情は何ら見出せないといわざるをえない。

本件各犯行の態様については、被告人は、前日に包丁を買い求めて準備したうえで、原判示派出所で勤務中のA巡査をおびき出して京都事件を敢行し、その約三時間後に大阪事件を敢行したのであって、一連の両事件の犯行は、大胆であるが計画的であるというべきであり、そして、京都事件では、被告人は、勿論被害者A巡査の抵抗を受けたにしても、原判決のいうように同巡査の身体各所を包丁で滅多突きにして同巡査に致命傷を負わせたうえ、更に奪ったけん銃でうつ伏せに倒れた同巡査の背部を射撃し、また、大阪事件でも、被告人は、突然けん銃を突き付けられて金銭を要求された被害者のBが事態を理解できずにとまどっているところで、至近距離から同人の前胸部を目掛けてけん銃で射撃したのであって、いずれの犯行も、原判決のいうとおり、強固な確定殺意に基づくもので人命を著く軽視した冷酷、非情で残虐な犯行といわねばならない。

京都事件の被害者A巡査は、当時三〇歳で妻と幼児二人をかかえて一家の支柱であったし、大阪事件の被害者Bは、当時妻子と別居中であったが、いまだ二三歳で妻との仲を取り戻して再出発する望みを抱いていたものであり、右両事件の結果は、このような被害者二名の生命をその場で奪ったもので、まことに重大であるというべきであって、所論指摘の大阪事件で強奪された現金が約六〇万円にとどまることなどは、特に被告人のために斟酌すべき事情とは考えられない。

ところで被告人は、原判決指摘のとおり、かつて警察官の職にあった当時の昭和五三年七月、勤務先の京都府西陣警察署でけん銃及び実包を盗み、右けん銃を用いて強盗を企て、郵便局に押し入って右けん銃で女子職員を殴りつけて傷害を負わせたり、右けん銃で発砲して通行人から金銭を強取しようとしたことにより、昭和五六年二月に強盗致傷、強盗未遂、窃盗等の罪で懲役七年に処せられ、昭和五九年八月三〇日に仮出獄したもので、右受刑中は成績良好と評価されていたようであるが、右仮出獄のわずか五日後に本件各犯行に及び、本件各犯行について、捜査段階では一応自白をしたものの、その自白にも虚実をとり混ぜ、凶器の包丁及びけん銃の処分についてはついに明かさずに終わり、原審以来、公判廷においては全面的に否認に転じて不合理な弁解に終始し、全く反省、悔悟の情を洩らしもしていないのであって、右受刑中の成績は表面をつくろっただけであったというほかなく、所論のいうように、被告人も右前科の犯行に走るまでは真面目に社会生活を送ってきたものではあっても、原判決のいうとおり、もはや被告人に対して矯正教育の効果は期待できないといわざるをえない。

そして、両事件の被害者の遺族らの被害感情が極めて厳しいことは当然であり、両事件が、警察官を殺害してけん銃を奪い、そのけん銃により金融会社の従業員を射殺して現金を強取した連続強盗殺人事件であるだけに、地域住民を不安に陥れたことも明らかであって、これらの事情も被告人の刑責を量るに軽視できない。

他方、特に被告人のために有利に斟酌すべき事情は、これといって見当たらない。

以上、両事件の罪質、動機、犯行態様、結果の重大性、各被害者の遺族の被害感情、社会的影響、被告人の前科及び犯行後の態度等の諸情状を併せ考えると、両事件の罪責は極めて重大であって、罪刑の均衡及び一般予防の見地から両事件について極刑をもって臨むのはやむをえないと認められ、原判決が両事件につき死刑を選択したことは是認できる。論旨は理由がない。

よって、刑事訴訟法三九六条により本件控訴を棄却することとし、当審における訴訟費用につき同法一八一条一項ただし書を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官村上保之助 裁判官米田俊昭 裁判官安原浩は転勤のため署名、押印することができない。裁判長裁判官村上保之助)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例